過去の歩み

過去の歩み

過去のワークショップ

回数 開催年 会場 当番世話人 参加者数
第43回 2023年 SHIROYAMA HOTEL kagoshima 吉浦  敬(鹿児島大学) 369
第42回 2022年 グランドパーク小樽 工藤 與亮(北海道大学) 326
第41回 2021年 WEB開催 前田 正幸(三重大学) 257
第40回 2020年 WEB開催 大場  洋(帝京大学)
青木 茂樹(順天堂大学)
299
第39回 2019年 万国津梁館 與儀  彰(琉球大学) 189
第38回 2018年 ハイアットリージェンシー大阪 三木 幸雄(大阪市立大学) 256
第37回 2017年 岐阜グランドホテル 長縄 慎二(名古屋大学) 260
第36回 2016年 金沢東急ホテル 寺田 一志(東邦大学) 230
第35回 2015年 玄海ロイヤルホテル 安陪 等思(久留米大学) 193
第34回 2014年 グランドプリンスホテル京都 山田  惠(京都府立医大) 240
第33回 2013年 湯本ことひら温泉 琴参閣 外山 芳弘(香川大学) 207
第32回 2012年 シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル 青木 茂樹(順天堂大学) 219
第31回 2011年 ホテル安比グランド 佐々木真理(岩手医科大学) 182
第30回 2010年 ヒルトン福岡シーホーク 興梠 征典(産業医科大学) 215
第29回 2009年 サンホテルフェニックス 小玉 隆雄(宮崎大学) 180
第28回 2008年 東京プリンスホテル 土屋 一洋(杏林大学) 208
第27回 2007年 シーサイドホテル「舞子ビラ神戸」 石藏 礼一(兵庫医科大学) 187
第26回 2006年 札幌北広島プリンスホテル 寺江  聡(北海道大学) 151
第25回 2005年 かみのやま温泉古窯 細矢 貴亮(山形大学) 146
第24回 2004年 ホテル海の中道 宇都宮英綱(福岡大学) 179
第23回 2003年 ホテルエピナール那須 小野 由子(東京女子医科大学) 165
第22回 2002年 大山ロイヤルホテル 小川 敏英(鳥取大学) 194
第21回 2001年 兵庫県立淡路夢舞台国際会議場 早川 克己(京都市立病院) 209
第20回 2000年 ホテルマウント富士 町田  徹(NTT東日本関東病院) 150
第19回 1999年 八幡平ロイヤルホテル 玉川 芳春(岩手医科大学) 122
第18回 1998年 嬉野温泉 和多屋別館 内野  晃(佐賀医科大学) 143
第17回 1997年 ホテルヘリテイジ 渡部 恒也(埼玉医科大学) 137
第16回 1996年 奈良ロイヤルホテル 岩崎  聖(星ヶ丘厚生年金病院)  
第15回 1995年 ラフォーレ修善寺 菅  信一(北里大学)  
第14回 1994年 蔵王ロイヤルホテル 高橋 昭喜(東北大学)  
第13回 1993年 オオサカサンパレス 井上 佑一(大阪市立大学)  
第12回 1992年 ホテル海の中道 蓮尾 金博(九州大学)  
第11回 1991年 ホテルレジーナ河口湖 前原 忠行(関東逓信病院)  
第10回 1990年 秋田厚生年金休暇センター 上村 和夫(秋田県立脳血管研究センター)  
第9回 1989年 鴨川グランドホテル 志賀 逸夫(慶應義塾大学)  
第8回 1988年 三河ハイツ 片田 和広(藤田保健衛生大学)  
第7回 1987年 福岡厚生年金スポーツセンター 奥寺 利男(福岡大学)  
第6回 1986年 東京女子医大白河セミナーハウス 小林 直紀(東京女子医科大学)  
第5回 1985年 湯沢ニューオータニ 伊藤 壽介(新潟大学)  
第4回 1984年 札幌 宮坂 和男(北海道大学)  
第3回 1983年 南阿蘇国民休暇村 高橋 睦正(熊本大学)  
第2回 1982年 蔵王 山口 昂一(山形大学)  
第1回 1981年 六甲研修所 御供 政紀(大阪大学)  

沿革

御供 政紀

記録は当時の私的手帳に数行のみ。薄い記憶を辿る。
Brussel(Belgium)でのICRから帰国して間もない1981年(昭和56)7月、順天堂大学の久留 裕先生から大阪大学に電話があった。
「まだ少ない神経放射線医が集まって、親睦をメインにした泊りがけの勉強会(?)を、金のかからないところ(S社六甲研修所)で開こうかということになった」
「具体的なことは東京女子医大の小林直紀先生と相談して」
「関西からも数名参加して」
「準備を頼む」と。

前もって関東でどんな話があったかわからない。趣意書や計画書があったわけでもなさそうだ。具体的なスケジュールやプログラムを小林先生に尋ねてももう一つ曖昧であった。河合(阪大)、井上(市大)、小谷(奈医大)、岩崎(県立奈良病院)諸先生に電話で協力を依頼、と手帳にある。

S社研修所の収容数は25名までである。どのように参加募集したのか、誰かが恣意的に人選したのか、記憶に定かでない。だから第一回世話人が誰かは知らない。その後に「第一回会長 御供政紀」と書かれるようになったが、その当時は準備手伝いの責任者程度の認識しかなかったし、「NRワークショップ」と称したかも記憶の外である。写真をみると会場入口に「神経」まで見えるので「神経放射線ワークショップ」であったのだろう。この辺は「多分」仕掛人であったであろう、小林、前原先生に補充していただきたい。

医局長として故西岡教授追悼式準備、院内雑務、医局人事などのほか原稿5本抱えての多忙さであったが、とにかく、久留先生には従順であった。直前まで関西の連中は久留先生が主役と思っていたので、久留先生はブラジルに招待講演旅行で欠席と聞きちょっとがっかり。

8月3日(月)、車でシャウカステン、スライドプロジェクターを六甲山上のS社研修所に運び、会場設定、宿泊部屋割りなどを行う。女性参加が一名、近くの由緒ある六甲山ホテルをリザーブ。

8月4日、5日ととりあえず午前はレクチャーと症例カンファレンスをやったように思う。午後も多少は勉強しただろうか、六甲山の花鳥風木を楽しんだ方の思い出が大きい。

しかし何といっても、この会の白眉は夜の食事後の放談ミーティングであった。それしか記憶にないといっても過言でない。各地、各先生の立場や人となりを知って大いに啓蒙された。その中心は前原先生と小林先生の掛け合い漫才であった。腹を抱えて楽しませていただいたが、その1つに「禿げ問答」があった。 「ハゲは差別用語だ」「じゃ何と言うぞ、頭の不自由な人」「コラッ、髪の毛の不自由な人といえ」 もちろん当時の小生のことではない。
久留先生も居られなかったから論外である。ちなみに「ハゲ」は差別用語でないと思っているし、その時「ハゲ」を連発したひとは禿げた先生を尊敬しての呼称だったのだろう。

翌年は山形大学、山口昂一先生にお願いして蔵王で行う約束をし、8月6日午前、解散した。S社研修所使用規定を全面的に破りつくした3日間。お世話いただいた社員、管理人の辻井哲彦、美智子御夫妻にはお礼の言葉が尽くせなかった。 蔵王、阿蘇、支笏洞爺と続き、現在のような大規模で用意周到な計画、準備のもとでのワークショップに発展するとは予想できない初回であったが、神経放射線に多くの人を惹きつける源流の湧き水的存在となったことは間違いない。その点でも、先鞭をつけられた久留先生、小林先生、前原先生に心からの感謝と礼を感じている。